優しい手 3

「俊介って佐々木のこといいなって言ってなかったっけ?」
教室の中から聞こえてきた一言に引き戸の取っ手にかけようとしていた手が止まった。中にいる人は見えなかったが、藤山の声だった。委員会が終わってメールするよりも直接来た方が早いと急いで教室に戻ってきた唯菜は扉の前で固まってしまった。
「まあねえ、って田山も言ってただろ?」
俊介の声だ。唯菜が間違うはずがない。
佐々木というのはきっと隣のクラスのスタイルも顔も整った派手な雰囲気で目立っている女子のことだろう。唯菜は佐々木の茶色に染められた長い髪の毛やしっかり引かれたアイラインや思いっきりカールした長い睫毛を思い浮かべた。
「えーそりゃなんかエロいじゃん、あいつ。男ならいいなあと思うでしょ?」
田山の声だった。
「そうか?俺は興味ないけど。」
と藤山の声。
「それは藤山がモテモテだからだろ?」
また田山の声が聞こえてきた。
唯菜は体の向きを180度回転させて歩き始めた。何も考えられなかったが、とりあえず足音を立てないようにする理性は残っていた。
俊介は佐々木さんのことが好き?
心なしか頭が痛い。ズキズキとした痛みとぐるぐる回る思考。
唯菜がふと我に返ると玄関の傘立てに腰掛けていた。

冷静になって思い起こしてみると、俊介は別に佐々木さんのことを好きと言った訳ではなく、いいなと言っていただけなのだ。その「いい」は芸能人に対する好意とそんなに変わらないものなのかもしれない。唯菜自身も、女子同士の会話の中で人気のある男子を「いいよねー」と誉めることだってある。
そう、それと同じ・・・かもしれない。
いや、きっとそうよね。
俊介の顔を見る前と後で随分思考の方向性が変わっている現金さに自分でも呆れてしまう。
出ていったのと同じ場所から俊介が走ってくるのが見えた。自分の方に彼が走ってくるというこの状況だけで、唯菜は先程の推察を確信に変えていた。俊介は佐々木さんのことをちょっといいなと思っているだけに過ぎないと。
「はい。」
俊介は手に持っていたペットボトルの片方を唯菜に差し出した。
「井上はお茶だったよな。」
「うん、ありがとう。」
受け取るときに指の先が俊介の手の平の端に触れた。危うく取り落としそうになるくらい心臓がバクンとなったが、平静を装う。俊介の自転車のかごから自分の鞄を取って財布を取り出そうとすると、俊介は
「いいよ。また今度おごって。」
と手の平を振った。
「オッケー、ではスマイル無料で!」
「また」という箇所に再び期待が高まるが、そんな素振りは見せずにいつものノリで答える。
俊介は微炭酸のスポーツドリンクを手にしていたが、蓋を開けるとシュワーと泡が勢いよく溢れ出した。
「うっわ!」
俊介は慌ててペットボトルを自分の体から遠ざけた。反射神経の良さのお陰か、服は汚れていようだったが、手は飲料水にまみれていた。
「いける?」
「おー。洗うわ。」
ペットボトルの蓋を再び閉め、立ち上がって歩いていった。俊介の行った先には小さな手洗い場があり、彼は自分の手とペットボトルをいっぺんに水で流し洗った。
「走るからだよー。炭酸振ったら駄目じゃん。」
「待たせんようについ走ってたわ。」
私を待たせないように走ってたってこと?俊介の言葉に唯菜の脳内はまた過剰に反応してしまう。顔がついにやけそうになるのを懸命に押さえる。中身が減ったと嘆きながら俊介はペットボトルを交互に持ち替えて空いた手をぶんぶんと振って水を切りながら戻ってきた。
「ハンカチは?」
「持ってね。」
「えートイレ行ったときどうすんのよ。」
唯菜は鞄からハンカチを取り出して俊介に渡す。
「自然乾燥。」
俊介はペットボトルを自分の隣に置いてからハンカチを受け取って手を拭うとありがと、とハンカチを綺麗に畳んでから唯菜に手渡した。
唯菜はハンカチを受け取る時に、俊介のシャツの胸元にスポーツドリンクで黄色いシミが出来てしまっているのを見付けた。
「そこ、汚れてる。」と指さして俊介に伝えるとすぐに立ち上がってさっき俊介が手を洗っていた手洗い場に駆けていった。手にしたハンカチを濡らして軽く絞るとすぐに元の所に座ると、俊介を自分の方に向き直らせてカッターシャツの汚れた部分を濡れたハンカチで叩くようにして汚れを拭き取っていった。
「綿はね、すぐ取っとかないと残っちゃうんだよ。」と説明しながら少しずつ薄くなる染みと賢明に格闘していた。殆ど分からない位になってほっとすると同時に自分が俊介と今までになく接近していることに気付いた。唯菜の手はシャツの胸ぐらを掴んで引き寄せているようにも見える体勢になっていた。母の影響で少々潔癖性気味の唯菜は自分の服はもちろん、友達の服でもシミを作っているのを見付けると応急処置をせずにはいられないのが、つい条件反射のように出てしまったのだが、急に恥ずかしくなってきた。
シャツばかりを見ていた目を少し上げると俊介の顔があるのが分かっても、顔を上げるどころか、視線を動かすことさえ出来なかった。
俊介は唯菜の説明に「ふーん」と相づちを打ったきり、黙って唯菜のされるがままで黙っていた。有無を言わせずしてしまったお節介とも取られかねない行動に、俊介はひいているのかもしれない、と不安になる。
「もういけるかな。」
できるだけ明るい声で言うと、俊介から体を離した。
「ちょっと濡れちゃったけど。たぶんこれで洗濯したら元に戻ると思うよ。」
目をあわせないようにそれだけ言うと正面に向き直った。俊介は、ほんとに取れてるよ、ありがと普通に感心しているようだった。二人の距離に慌てていたのはどうも自分だけらしいことが分かると少し暗くなる。
俊介の何気ない一言や仕草に浮かび上がったり、落ち込んだりしているのが情けなくなってくる。
隣に座る俊介を窺い見るとペットボトルの中味を一気に飲み干していた。さっき唯菜が濡らしてしまったシャツはまだ乾いていなかったが、ジュースの染みはここから見る限りでは分からなくなっていた。

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